内川に架る湊橋(お助け橋)
古来、放生津湊口は渡船によって往来してました。
文政4年に放生津大火で1500戸が焼失し
48人の焼死者を出した。
このことから藩は、はじめて長さ30(55m)間、幅9.5尺(2.9m)の
板橋を架けた。
これをお助け橋と言った。(看板より)
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富山新港〜富山湾に抜ける内川
新湊の特徴的風景です。
東側
※エエでしょう〜
西側です〜
後でね。。
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県道は街中を通っていますが〜
バイパスが歴史を見下ろすように
出来ています。
※本町の街並み路地が
川向こうに
見え隠れ〜
後でね。。
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ねっ!
※鏝絵?
凝った造りの地蔵堂。
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さて〜
港町の路地に突入します!
何処も同じですが〜
港町の路地の結界魅力には
いつも、取り込まれます。
千本格子〜〜〜
※路地口を見守るように地蔵様。
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此処の路地は折れ曲がり
毛細血管のように枝分かれしながら
クネリながら浜際の地域に存在します。
※突き当たりには地蔵様。
(多い地区です)
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商店だったんでしょうね。
地蔵堂も凝っています。
※北は防潮堤へ…
バイパス越えれば奈呉の浦〜
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漁師町だったんでしょうか?
富山湾はイカ、エビ、鰤etc〜
天然の生簀だとか。。
※オットつっかい棒〜!
長屋同士の助け合い。。
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千本格子が目につきます。
※曲がりくねった東西路地から
北方向見れば防潮堤が〜
地蔵様も…地蔵盆は賑やかでしょうか??
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此処にも商店の横に地蔵堂
※鎌倉初期、敦賀の気比神宮の神領地で布・鮨・鮭などを献納していましたが、
奈呉の気比宮はその末社として勧請されたと伝えられます。
天正9年(1581)最後の越中守護代・神保家神保長住が出した制札では
放生津の三宮の一画を担っていた由緒ある古社です。
古新町に鎮座していた住吉社は、昭和3年の大火で焼失し、ここに合祀されました。
(境内看板より)
海は回廊〜を噛み締めながら…
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拝殿の狛犬は松の木彫で市指定文化財となっています。
奈呉町の釣方漁師中からの奉納
松の寄木造りで矢野啓通(やの たかみち)作の狛犬
※此処にも〜
まだまださん如何??
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南側は内川
汐の香がする街です。
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内川沿いは
カラータイルで舗装されています。
昔はトロ箱や威勢の良い声が
並んでいたかと思えば〜
嬉しくなります。
※立町と本町の町界です
水門、海抜0mの地区ですね。
後でね〜
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中の橋
向こうに立山連峰です。
絵になりますね。
※春の路地〜
クーラーの室外機…
御洒落な屋根ですね。
雪の影響でしょうか?
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昔は西へ50m〜
専念寺路に続いたとか…
上の路地に架かっていたんですね。
大平用戦争時の金属供出も有ったとか〜
※中の橋の上から東方面〜
ええ景色です!
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西側〜
パーキングチケットが有るのか?と
思うくらいの景色です。
※高岡二上山方面 |
角の地蔵様
ん?姫野曹長誕生の地
※神風特攻隊 荒木飛行曹長顕彰の碑
調べてみたら〜
201航空隊 昭和19年10月25日
第一神風特別攻撃隊 大和隊 セブ基地発 バタク島沖機動部隊攻撃
聯合艦隊告示71号
(零戦)
飛長 荒木 外義 (富山・丙飛15期) 戦闘306飛行隊
(神風特別攻撃隊(特攻隊)戦死者名簿HPより)
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北方向〜
防潮堤と地蔵堂
※先へ〜
路地に潜ります。 |