古/いにしえの面影       其の七百四拾九

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

 撮影日  2010年05月22日 土曜日

福井県小浜市下根来(ねごり)鵜野背(御水送)

行け行け!CCC(チキン・クライム・クラブ)
自転車で彷徨うのも足が大事!

京は遠ても十八里
遙か千二百年以上も前の平城京からも
若狭からの鯛の鮓や魚介類、塩等の木簡が出土しているとか。


袖すり合うも他生の縁〜

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)


2003.03.13の御水取り風景〜
ここもUPしていないわ。。。^^;

燃える籠松明に映える3代目良弁杉!
長い行列の末に最後の籠松明。。
大勢の見物客の数に閉口しました。
 
伝説によれば、持統3年(689)小浜下根来に或る夫婦がいました。永らく子供が有りませんでしたので観音様に
お願いして男の子を授かりました。喜んで育てていましたがある日の事、畑で仕事中、木陰で寝ていた
赤子をワシがさらっていきました。母親の知らぬ間にスーと降りてきてその子をワシづかみにつかんで
空へ飛びあがりました。子供のいなくなったのに気づいた母親は飛んでいくワシの後を追いかけました
が遠くに去っていくばかり。
とうとうワシは奈良まで飛んできました。今の二月堂の下の杉の枝にしたにひっかけて食べようと
しました。するとねその子の胸のあたりから後光がさしてワシのの目がくらみました。
ついに食べる事は
出来ず、諦めて飛び去っていきました。
その下をたまたま義淵(ぎえん)というお坊さんが通り、赤子の泣き声がするので上をみると、
枝に子供がひっかかっているではありませんか。
すぐに人を呼んでこの子を降ろして見ると、懐に一寸八分(5.4cm)の金の観音様の
お守りが入れてありました。
義淵はこの子を良弁と名づけて育てました。
良弁は後に立派なお坊さんになり東大寺の建立に力を尽くしました。
さらわれてから30年間、全国を探し回っていた母親ともその杉の木の下でめぐり会う事ができました。
看板より




厳しい気候にも負けないで…



覆屋が〜
雪深いのでしょうね。
ムササビによる(?)
建物穴も。。

歯磨き、せんと〜


※吽

雪深く苔むして
天保年間の〜



木の根も苔生して。。



白石大明神

※本殿

根来観光案内図
次は山の神、栃の木に会いに行こう!

※手水鉢

お水取り若狭井の源泉

※京は遠ても十八里
奈良は、もっと遠い。。。

鵜の瀬橋

宇治川みたいに
此処から水は汲みません。。

遠敷川〜
上流部から来ましたんや。。

※下流部に
気になるところが。。

名水百選
鵜の瀬

※ステッカー¥300-

資料館内にての
お水送り風景。。

※御水取り風景
流石〜プロ。。。

資料館にての
役行者

※山岳信仰

鵜の瀬全景

天平の頃、若狭の神宮寺(神願寺)から
奈良の東大寺に行かれた印度僧実忠和尚が大仏開眼供養指導の後、
天平勝宝四年(この時代だけ四文字の年号)
二月堂修二会を始められる。
その時2月初日に全国の神々を招待し参列されたのに、
若狭の遠敷明神(彦姫神)だけが、川漁に時を忘れ
2月12日(旧暦)夜中1時過ぎに参列された。
其のお詫びも兼ねて、若狭より二月堂本尊へ、
お香水の閼伽水を贈る約束をされ、
二月堂下の地中から白と黒との鵜が飛び出て泉が湧き出したのを
若狭井と名付けお水を汲む行事が始まった。
その若狭井の水源がこの鵜の瀬の水中洞穴で、
其の穴から鵜が奈良へ潜っていったと伝えられる。
毎年3月2日夜、この淵へ根来八幡の神人と
神宮寺僧が神仏混合の「お水送り」行事を行う習いがある。
(小浜市看板より)


古来の神が、当時伝来の新興宗教(失礼!)
仏教に。。。
神と仏の位置が面白いですね。

鵜の瀬碑

※鳥居越しの
川向こうの祠

鵜の瀬の神

※お水送り
の名残?



※若狭一宮
若狭彦神社・若狭姫神社
霊域なんですね。

この燃え残りの木材も
神事の名残(?)

※向こうの神様
夫婦神でしょうか?

この四角の穴が
薪の位置??

※水遊びの親子も〜
神様も時を忘れるくらい
オモシロイのですからね!

注連縄〜







国旗掲揚台


いつまで知った景色があるのやら。。
頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら〜
ページトップへ戻る
Copyright c 2003 Office Young Moon. All Rights Reserved.