古/いにしえの面影       其の七百拾九

怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

 撮影日  2010年04月18日 土曜日

京都府乙訓郡大山崎町(離宮八幡宮)

タケノコ採りに行けへん?

で、此処に〜
(こればっか!)

大山崎は古代、中国大陸から大和平野へ「文化」が流れ込む「シルクロードの延長線」上に位置していました。
平城京、長岡京、平安京の外港として淀川水運の要である山崎津(港)があり
山陽道(西国街道)が通る等、水陸交通の要衝でした。

 中世には、八幡宮へ供える灯油としてえごま油の製造・販売を独占し、大きな富を得ました。
また、羽柴秀吉と明智光秀の天下分け目の「山崎合戦」があったことはどなたもご存知の有名な話です。
その他明治時代になるまで、この町は武家政権による統治ではなく、
住民による自治を行なっていたこともぜひ知っていただきたいことです。

(大山崎町歴史資料館HPより)


東大寺の飛び地(領地)なんですね。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)


惣門(高麗門)徳川家光奉納ですって。
休憩中〜どちらさま??

※清和天皇貞観元年(859)、南都大安寺の僧行基が、
「吾、王城近き石清水男山の峯に移座して国家を鎮護せん」という
豊前宇佐八幡の託宣を蒙り、
勅命により、行基が八幡神を奉じて山崎の地に至った時、
当地で霊光を見、不思議に思って、掘ってみると岩間に清水が湧き出したため、
当地を社地と定めたという。
石清水八幡宮の元社ですって。

従是西 八幡宮御神領守護不入之所
従是北 八幡宮御神領大山崎総荘

※殺生禁断之地
守護不入所

独立自治地だったんですね。

大山崎

※常夜燈
油は安心だったんでしょうね。

奉納馬
三つ杉紋

※かしき石だそうです。
嵯峨天皇の河陽宮のあった頃には山崎橋がかかり河岸に相応寺、
橋の上流には山崎津(港)がありました。
かしき石はその相応寺の塔(三重塔と推定)の心礎であるといわれています。



※三重塔の石材の一部でしょうか?

多くの奉納灯篭〜

※紋も

四脚の手水舎

※明治期奉納手水鉢

宦神奮
有名人居てますか?

※本邦製油発祥地碑

嵯峨天皇の離宮があった河陽宮故址だとか。

※大正11年銘 大阪油商山崎講中

油脂販売業者の店頭標識
昭和32年に全国統一標識として
油座の司、遷座1100年記念
に制定されたとか〜
黄と黒なら阪神タイガース色??
制作者は甲子園在住の島本昭三氏。
道理で〜〜

※油祖像
当社の神官が、貞観年間に「長木」という搾油器を発明し、
荏胡麻油の製油を始めたため、油祖の神としての信仰も篤いという。

こんな感じで献上されていたんでしょうかね?
 
大正12年銘
金壱萬円(今なら約920万円!)
へぇ〜
帝国五分利公債
大阪油商山崎講主催
由水会

※摂陽大阪
備前屋宗兵衛
乗名(?)屋仁兵衛
油屋伊右衛門
川■屋六兵衛

中門(四脚門)

※拝殿

明治期銘の井戸



本殿

※ん?
瀬戸内海をゆく油売り。。
大山崎町歴史資料館、見に行こう〜

合祀された〜

※手水鉢
嘉永11年勝竜寺城主永井日向守奉献

岩間に清水が湧き出した場所
石清水八幡宮の名の由来

多くの神様が〜ここにも

※数奇な運命が在ったとか
三重塔基礎石

菅原道真公腰掛の石
九州に流された折に座して
一首の和歌を詠んだとか
『君が住む
宿の梢をゆくゆくも
かくるるまでも かえり見しかも』

※石よ〜聞きましたか?

此処にも祠が〜

※中門より
鳥居を望む

新しめの狛犬


※吽

昭和7年銘
松田さん

※石清水八幡宮銘の
石灯籠

裏門です〜

※ボタン桜が満開〜

JR大山崎駅と大山崎の峰
天下分け目の戦い跡〜

※駅入り口です

振り返れば〜
駅前風景

※国宝 妙喜庵

扁額

※淀との関わり〜

拝観予約がいるんですね



千成瓢箪が〜
鮮やかに!

大山崎町歴史資料館
見に来ましたで〜

天王山の蛙だそうです。
大阪見物の蛙と京都見物の蛙が
天王山で、お互い立ち上がり
目指す彼方を望むと住んでいるところと変わらない〜
諦めて帰ったという(鳩翁道話より)
目が背中に付いているから。。

山崎の津(港)
から直線に道路
直行する西国街道
左右の小さな橋が境界。
こんな街並みだったんですね。
いつまで知った景色があるのやら。。
頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら〜
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