古/いにしえの面影       其の七百八拾九
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

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 撮影日  2008年08月13日 水曜日

大阪府大阪市東淀川区大桐Ⅱ(大隅神社)

えいや~!大阪市内に戻ります。
淀川のいちばん出口の、今の新大阪駅の近くに、古代には大隅島というのがありました。
現在は地続きですが、明治十八年(1885)の大洪水の時に二キロ四方ほどは、水没しなかった。
もとの大隅島で、その真ん中に大隅神社がある。
そして河岸に有名な江口がある。そこは、銅鐸がでたり、九州的な鋼矛が出たりしている。
これの実物は残っていなくて、記録だけがあります。
それから弥生時代の段階で、鉄製の環状の頭がついた素環頭の刀がでたりする。
小さな島なのですけれども、早くからいろんな地域の文化や、当然人びとの集まるところです。
ここが、『日本書紀』でいう応神天皇の大隅宮のあったところだということになっている。
そして、大隅という地名から、近畿地方には近江や河内やあちこちに隼人が分住しているし、
とくに山城には大量の隼人がいるけれども、大隅島は近畿の隼人の要のような土地、
九州の隼人との中継地のようなところではないかと見ているのです。

その大隅島に牛を放つという記事が『日本書紀』の安閑二年の条にあります。
そうすると、その段階には大隅島は原野のようになって利用価値がなくなったから
牛を放ったのだという人がいるけれども、網野さんの説明を聞くと違うと思います。
やはり淀川水系と海の交通手段との接点に、意識的に牛を飼育していた。
たとえば、淀川を大きな船が遡っていく時に、紀貫之でも土佐からかなり大きな船で戻ってきて、
そのまま山崎まで淀川を遡っていますね。
近世でも朝鮮の通信使が来た時には伏見のあたりまで大船をひっぱっていく。
河川交通の場合は、下りはゆっくり自力で行けても、
遡っていく場合は、小さな船は人間が曳いています。
野崎参りの船は、人間がひっぱっています。そして、大きな船なら、
人間だけではどうにもできないので、川の横にある道を利用して牛や馬でひきあげざるをえないと思うのです。
だから、そういう意味で、信濃や甲斐の大きな牧とは別に、交通の拠点にある小さな牧の役割というのは、
僕は意外に大きいのではないかと思います。


参考記事: 天武朝と隼人 竹の民俗誌 沖浦和光著 岩波新書(1991)より
                   畿内の牧“近都牧”森浩一・網野善彦 馬・船・常民 講談社学術文庫(1999)より


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古くからの島とか~

※元は賀茂神祠と呼ばれたそうで~

石畳フェチには堪りません。



大道町銘の手水鉢

※お百度石と拝殿社

燈籠に~
北区市之町
我会でも

此処の狛犬さんたちは
まださんも、ご存知でした!

※ダークダックス?
ボニージャックス??
えっ?SMAP???
KARAですか~!?

なんか言いたそう~



怒ってはる~

※ニヤリと~




明和五年
(1769)

※眼帯付
痛いやんけ!

大声コンテスト?

※負けへんぞ!

ワオ!

※びっくりした~

それぞれ特徴のある方々!

※なにわ型狛犬尻尾
正揃~

職人のニヤリが~



本殿舎
流造りですね。



 
摂州西成郡北中嶋、乳牛牧の荘
大道村・辻堂村・三宝村
(南大道・北大道・西大道)
まとめて三大道とか…
神仏分離の影響~


袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。
頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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