古/いにしえの面影       其の七百九拾壱
怪しい親爺輪っぱの会 別館 一人歩き編です。

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)

 撮影日  2009年04月04日 土曜日

大阪府大東市住道~野崎(野崎街道)

えいや~!大阪府内に戻ります。
江戸期の大阪市内には、
淀川(大川)と旧大和川が流れ込んでいました。
その後、先人の力で治水が良くなりましたが、
井路川(クリーク)が広がり道路状況が悪く、
寝屋川等の運河は、水運で栄えたとか。

上方落語『野崎参り』三代目桂春団治氏
聞きながら~

(※=マウスポインターを画像上に置いて下さい)


昭和47年7月9~13日に降り続いた豪雨(総雨量328.5mm)
24時間最大雨量145.5mm
1時間最大雨量25.5mm
床上浸水2194戸
       床下浸水5000戸 計7194戸
避難者数のべ6217人
その時、住道北小学校は、大東市内の学校の中でも、最も被害が大きく、
1階の教室は水びたしになったそうです。
今でも、校長室のついたてに水のあと(床上70cm)が残っています。
当時の先生方のお話によると、阪奈道路から運動場を通って、
玄関ホールまで往復したり教室が住民のひなん場所になったりしたそうです。
又、雨がやんでも道路の水がひかないので、
先生達は寝屋川の堤防の上を歩いて学校にかよったり、水がひいた後も、
1年生のあさがおの花や葉にこびりついたヘドロをとるのに苦労したりしたそうです。


浜町・三住町は床上60cm~1mぐらいつかってしまいました。
おとしよりや子どもたちはゴムボートで、市民会館や幸町の方にひなんしました。
寝間着のまま避難した人もいました。
川か道か、見分けがつかない状態で、水の上に家が立っているようでした。
住道北小学校の南側の細い道は、大人でも背が立たないくらいつかっていたそうです。
線路が水につかって、電車が住道までこられないので、鴻池新田までで、おり返し運転をしていました。
浜町から三住町のしんせきの家に行くまで、浅いところをさがして行ったので、1時間近くかかりました。
寺川・北条などの山の方では、鉄砲水や土砂くずれのため、ひなんする人もいました。
水がひいた後、市役所から、伝染病予防のための薬をまきにきました。(水害にあった人々のお話)

(住北小HP「すみきた100年の歩み」より

※上の記事読めば、此の堤防が無かったらと思ったら…
怖いですよね~

住道大橋架換竣功記念碑



この先からは、二段堤防になっていますね。
下の段が昔の堤防でしょうか?

※向こうの蔵は
背hが高い~

本瓦が目を惹きます。

※腰下はモルタルで上は木造~
名残でしょうか?
車道は交通量が多いので
川沿い歩道は整備されています。

生駒山からの流れこみが多いんです。
この辺りの雨を集めてしまったんでしょうね。
開発で田が無くなり、小川が水路(溝)の役目しか無くなり
土地に保水能力が無くなったせいでしょうか?
それにしても、限度を超えた豪雨だったのでしょうね。

※橋の向こうは
大東町~前にも

両皇大神社さん

※地車庫も有ります。
派手な場所のようで~

深野東村より移設とか
保護ですね。

※春日灯篭~

浜より野崎街道に通じる道を北に~

屋敷林が有ります。

背高蔵

※右 のざき観音道
左 大阪道
道標~

段蔵も~

※あの樹に
歴史を聞きたいなぁ~

野崎参りは
この下の水路も使ったとか。

※寝屋川は先に~

野崎街道沿い
農家の様子~

※向こうに古が~

昔は菜畑の間の街道だったみたいです。

JR学研都市線(片町線)
野崎駅近く踏切越えて~

此処まで屋形船は着ていたんですね。
観音浜(野崎観音)
水位確保のために水門を閉めて満水にして
田舟を洗い毛氈敷いた舟で粋な客を運んだとか。

※浜は此処ですか~

障子紙貼った
入り口
農家の様子~

※東高野街道に突き当たります。
袖すり合うも他生の縁~
いつまで知った景色があるのやら。。
頑張ってボチボチ更新中…^^;
古の人の息吹を感じながら~
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